熱量

10日、佐藤組追い出し試合。アカクロジャージを着て、同期と2年ぶりのラグビーを楽しんだのが小柴大和主務。
この4年間を振り返ります。

「成長したのはストレス耐性ですかね(笑)。体力プラス半端じゃない圧力、プレッシャー…なかなか社会に出ても
こんな若造で全国からプレッシャーを受けることもないと思うので…。その中で手に入れたものは多くの人との
繋がり、本当にどれだけ愛される組織かというのを改めて再認識できました。」

札幌ラグビースクールでラグビーを始め、函館ラ・サール高校ではキャプテンとしてチームを牽引。いくつかの
大学が進路として頭に浮かぶ中で、決め手になったのは『アカクロ』そして『荒ぶる』でした。

「自分が小さい頃から見てきたラグビーの根幹というのは、やっぱりワセダラグビーであって、アカクロを着ている
選手達が日本一を取って、荒ぶるを歌っているというのは理想の姿。自分が今度、あの場に立ちたい…それが
きっかけでワセダに決めました。」

入部後はバックローの選手としてアカクロを目指して、練習に打ち込む日々。転機は2年生の冬、桑野組のシーズンが
花園で終わりを告げると一つの決断を迫られます。新体制の中での副務決め…スタッフへの転身は、目標の
『アカクロ』との決別を意味することでもあり、簡単に決められる話ではありませんでした。

「ある程度の候補は投票とかで絞られていて…。雰囲気的には(自分を含む)こいつかこいつだろうみたいなのは
あったと思います。」

「前後の(学年の)中でもほぼほぼ異例」という学年会議をあまり開催しない代という事もあり、同期と議論を
重ねる前に一人考え悩む時間が続きます。

「僕の中で一番あったのが同期に後押しされたから自分が主務を決める…と言うのでは、ちょっとこう自分の仕事に
対して、一つの決断に対して自分の判断が少なすぎて、自分の決意が足りないなとすごい思っていました。最後
決める時は同期に任されるというよりは自分がワセダラグビー部でどうなりたいか、自分たちが、この同期が
最後日本一になるには自分がどこにいる事が最大限力を発揮出来るかを冷静にあの大学2年生の冬に考えました。」

そして、出した結論は「このチーム、自分たちの同期を日本一にするには最後自分が主務になるしかない」と自ら
当時の副務になる事を仲間に告げます。

「周り的には『お、マジか!?』みたいな感じでした。今思えば何でそんな決断したのかとも思うのですけど…。
最後は自分の中でしか結論は出ないと思っていたので、あっさりと自分で決めてしまいました。そこに関しては
あまり同期にも語ってこなかったです。」

部内をまとめる立場であり、首脳陣と学生を繋ぐ立場。難しい立ち位置でありながらも、日本一になるために
妥協はせず、山下大悟前監督にCチーム以下の練習メニューの改善要望をダイレクトにぶつけた日もあったと
振り返ります。

「大悟さんともだいぶ戦ってきました(苦笑)。(山下前監督が)色々言われる中でも強い芯を持っていて、
色んな考えを持った上での行動というのも分かっていたのですが、僕も結構色んな事を言ってぶつかりあいながら、
分かってきたことを同期とかにも落としていました。」

楽しそうにプレーをする仲間たちを横目に、裏方で部を支える日々。「部内をしっかりとまとめることは勿論、
外の人達を繋いでより大きなワセダラグビーの力を作る事が僕の役割」とグラウンドを訪れるファンにいつも笑顔で
応対し、ある日の練習試合では雨の中で観戦に訪れたファンを見かけると、テント内の部員の荷物を寄せて
スペースを作り、濡れないようにテント内での観戦を勧める気遣いも。

「大悟さんは選手に集中できる環境を…選手にプライオリティを置いていらっしゃったのですけど、相良さんは
ワセダは応援してくださる方が一番大事だから…という考え方で。僕の中では両方知ってそこの間を、選手も
集中できる環境プラスアルファ、ファンの方々も快適により笑顔で応援してくれる環境を作りたいと思っていました。
選手に集中散るわ…と言われたこともありますし、ファンの人たちももっと近寄りたいという思いも分かっていたので、
そのせめぎ合いを繰り返して、より選手とファンの距離を縮められた今年だったのかなと思います。」

同期のスタッフにも支えられて、より良いラグビー部の環境を追い求める中で力を与えたのが、下級生の頃に一緒の
チームで汗を流していた同期の頑張り。

「例えば児玉が朝日大戦で表(先発)で出たりとか、堀越がアカクロ9番を着たり。全然Eチームで一緒にやっていた
ようなやつらがアカクロを着たり、(西田)強平も副将になって最後ジュニア選手権のカテゴリを上げてくれたり…。」

中でも印象的と話すのが昨年10月のジュニア選手権・専修大学戦。アウェイの戦いで相手に4連続トライを与えるなど
前半途中で14-35、20点以上のビハインドを背負う苦しい展開に。

「法政Bに快勝した後で(試合前は)みんなの中でも普通にやればいける…みたいなのが結構あって。ポンポンポンと
取られてやばいなという空気があった中でも(西田)強平、松井、貝塚、船越とか4年中心にもう一回、グラウンドの
中でグッとまとまってくれて、それがまた力になって反発力を見せてくれました。多くの人はジュニアの流通経済大の
入替え戦とか、早慶戦、早明戦、選手権準々決勝がキーポイントと言うのですけど、あそこでBチームが負けていたら
たぶん今年ここまで勝っていないと思うので、僕的にはターニングポイントは専修Bの4年かなと思っています。」

スポーツ推薦が2人で、一般受験、指定校推薦や内部進学者が多い学年…「雑草魂じゃないですけど入部した時は同期
みんなこの代はやばいんじゃないかとずっと言われていたくらい」という学年がラストイヤーに8年ぶりの対抗戦優勝、
5年ぶりの年越しと実績を残した一方で、それでも届かなかった日本一、1月2日が忘れられないと話します。

「最後の最後まで全員が全員、最後マイボールになった時に勝ちを信じていたので。その分負けた瞬間の気持ちは現実を
受け止められない…そういう感じでしたね。まだこのメンバーでやりたいという思いと絶対にこのメンバーで日本一を
取れると口だけじゃなくて、本当に心の底から今年は肌感覚とか思っていたので、終わるときは一瞬なんだなと思いました。」

そして様々な後悔が押し寄せます。

「自分が主務(になる事)を決めた時も、最後主務になったことを肯定するには、日本一になる事と心の中でずっと
思っていました。自分があと2年間(プレーヤーを)やっていたらどこまで体を張れていたのかなとか…挑戦という
意味ではこれから一生かけてもどれだけ悔いを持っても戻せない時間ではあるので…。」

卒業後は広告関係の仕事に。この悔しさを社会人で生かしたいと言葉に力を込めます。

「この負けというのも自分自身の人生においては大きな学びであったと思います。社会に出て、また違った気質の戦いを
すると思うのですけど、僕自身はワセダラグビーに懸けてきた熱量をそのまんま懸け続けられる会社を自分で選べて
入れたと思うので、次はイッコイッコの仕事に誇りを持って、そこに対して熱さも持ちつつ、次はビジネスの世界で
日本をリードしていけるような存在にしっかりとなっていきたいと思います。」

具体的なイメージが続きます。

「2019年W杯以降の永続的な日本のラグビー文化の発展であったり、僕自身北海道出身なので、地方におけるラグビーの
発展、改めて文化を築き上げるビジネスモデルとかを探れるような仕事を…と今は思っています。」

スタッフとしての仕事柄、パートナー企業やラグビー協会、招待試合や英国遠征などを通して人との繋がりが増えたのが
大きな財産と振り返る小柴大和主務。「多くの人と接して、ひとつのモノを作り上げていくのが好き」とこれからの
ラグビー界の発展を縁の下から支えます。【鳥越裕貴】



追い出し試合で笑顔を見せる小柴大和主務。同期の仲間について。
「この同期であったからこそ全員、最後までお互いを信じて戦い抜けたと思います。一人一人個性豊かで良い仲間だったの
ですけど、その中で一人一人が今まで生きてきたストーリーが熱くて…。その熱さがワセダラグビーというものを軸に
しっかりまとまった、そういういい同期だったかなと思います。」

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